□砂川肇のユニローグ48

2012年 5月 2日

もう、何回も書いてきたことだけれど、歳を取るって、けっして悪いことじゃない。嬉しいことも、多々ある。いや、“も”は良くないな。歳を取るから“こそ”、嬉しいことどもに出会えるんだ。そう想う。

“そう想わなきゃ、やってられないんじゃねーか?”って。とほほ。正しいかもよ、そこの若輩クン!

今年に入ってのある折。カブキチョーのとあるバーで。暇こいてたもんだから、隣席の青年氏とボチボチばなしを始めた。「ここ以外では、どちらでお飲みに?」「あ、う、神保町あたりで」「ほぅ、どんな店?」「○○っていう、小汚いところですけど—–」

ドッカーン! ○○と聞いたとたん、ボクは一瞬、ほんの数秒だけど心肺停止状態になってしまった。「うそっ(驚愕)! ボク、そこ、知ってるかもしれない。でもなあ、35年も前のはなしだから、違う店かも。名前だけ同じ、かな?」

しかし、なのさ。仔細を問うて、確信した。「あの店だ!」。もう50年近く続いているバーで、カウンターに7~8人も座れば満杯で。女主氏は70歳がらみで、有線のジャズがこそっと流れていて—–。

30歳になったかならないかの頃、ボクはその店に入り浸っていたんだ。そのとき属していた会社の悪辣同輩たちと、ほぼ毎晩—–。

若造たちだからこそ、上司たる経営陣を嫌味満タンで欠席裁判したり。青造で、なんにもわかっちゃぁいなかったくせに、時事刻々たる社会問題に赤顔でウンチクしたり。見解が分かれて、怒鳴り合いに転じて、ある一人が手にしていたコップをカウンターに叩きつけて。破片が指に刺さって、血が流れだしちまって。

「じゃあ、お前はあの頃、何やってたんだよっ!」と、当時お決まりのセリフが飛び交って(わかる御仁にはワカルよね!)、よしゃあいいのに胸ぐらをつかみ合って。と—-ついに雷が落ちたんだよね、じっとガマン顔だった女主氏から。「ハイハイ、ハイハ~イ。どんどんやって、外で(怒!)」

とたんにみんな、ヒソっとしちまって、何人かが「じゃ、オレ、仕事に戻るわ」と小声しつつスツールから尻をはずして—–。

隣席の青年氏は、名刺の裏にていねいな地図を描いて、「いちど、訪ねてやってくださいよ」と微笑みかけてくれていたんだ。

だから—–それから、3カ月か4か月。お久な水道橋での仕事と仕事飯が終わって、ボクはその名刺を取り出していた。歩いて、すぐそこ。ていねいな地図は、しかしちょっぴり端折ってあって、辿りつくまでに30分も掛っちまったんだけど。暖簾を掻き分けて立ち入った○○の佇まいは、なぁ~んにも変わりなく、生きていた。

楚々とした女主氏の、ハスキーな声や振る舞い。その背棚に並ぶのはサ△□リーの角瓶、角瓶。カウンターには、値段お手ごろな旬の惣菜。おそらく、静かに流れているジャズも—–。

それから小一時間ほど紡がれた“こもごも”は—–書かない。書くもんか。冥土に持っていくべき“極私的お宝話し”だからさ、ボクにとって。

と言っちゃあ身も蓋もないな。じゃあ、少しだけ、おすそわけ。ちょっと離れた席に黙って座っていた老紳士氏が、ビミョーに空気を読みつつ聞いてきた。「ホントに35年ぶりなの?」。ボクは、即答した。「ええ、まさに」。彼は応じた。「ふうん、10年、15年は聞く話だけど、35年ねぇ。その間、一度も、来てない?」。ボクは、嬉しくて、嬉しくって、満面笑みでうなずき返した。

もちろん“こもごも”には、哀しい文脈もひそんでいた。

まず○○は、じつは35年前の実物ではなかった。昔のところから、300メートルほど引っ越していたんだ。だから、殴り合ったのは“このカウンターで”ではなかった。コップの破片で指を血に染めていた同輩は、かれこれ20年前、突発的な心不全で世を去っていた。ボクをこの店に初めて連れて来てくれた通称ハマさんも、もう10年ほど、顔を見せていない—–。

喜ぶべき局面もあった。遠くの席で様子をうかがっていた、もう一人の紳士氏が、ほろ酔い声を投げてきた。「で、あんた、幾つ?」。「65歳です!」とボク。そしたらさ、彼、ちょっと俯いちゃってつぶやいたのさ。「ふーん、まだ若者さんじゃないか」。へへーィだ。どこへ行ってもジジー扱いされる今日この頃のボクではありますが、ここでは若者! たはっ。嬉しーぃじゃあーりませんか!

ところで、なのさ。35年ぶりの、こんなステキな再会を切っ掛けしてくれたカブキチョーのバーそのものが、じつはこの3月末で閉めちゃったんだよ。世はめぐるんだ、前にも書いたけど。因果だ、とでも言葉をつなぐべきなのか。ああ。

このバーをめぐる“こもごも”は—–もうしばらくは、書くことなんてできない。

 

PS:○○の名を明かせ? バカ言っちゃあ、あきまへんで。このブログがきっかけになって、若輩たちが殺到したら、誰がどう責任取るっちゅうんジャい! この!

□砂川肇のユニローグ47

2012年 4月 4日

12年3月25日。暇こきついでにテレビをつけたら、あれれ、我が阪神タイガースが、イチローのいるマリナーズと親善試合してるじゃないか。ふんにゃら~と斜め見してたら、なんともな打線爆発で大勝しちゃった。

「取っておけよなー、シーズン入りまで(怒)」とボクは密かに啖呵を切った。ついこのあいだまで泥沼の貧打だったくせに、コノぉ! 今年は良くて4位、まあ5位くらいが妥当だろうね、このチームの位置としては。猛虎キチとして60年も苦節一筋だった我が心眼は、そんじょそこらの解説者なんかより、はるかに鋭利で気高く正しい。

—–と思っていたら、夜半になって、かの大金持ち読売ジャイアンツが、アスレチックスに激敗してくれたんだ。いいねー。今年のマイ・プロ野球シーズンは、本日をもって終わりでいいや。

シーズンに入ったら、虎ゲームなんて絶対に見に行かないぞ! みみっちくテレビなんぞつけないぞ! あ、ちょっとだけ見るかな? 暇なときは仕方ないじゃないか、と自分に言い聞かせて、うんと見ちゃうかも—–うはは。なに毎年、おんなじことを言ってるんだろうね。

—-と、ここまで書いたところで、ある友人の“迷哲学説”を想い出した。曝虎キチの彼、あるとき次のような教訓を垂れやがったんだ。

「タイガースは負けていいんだよ。もうとにかく、連戦連敗する。と、甲子園に入り浸っていたキチたちが、百人減り、千人減り—-。そして誰もいなくなって、ついには俺一人だけが外野スタンドの一角でしみじみしてるってわけ。あの広大な甲子園を独占してね。これって、凄いんじゃない? タイガースファンじゃなきゃ、できないことだよ」

「バカ言ってんじゃないよ~ぅ♪♬」とうそぶきつつ、親善試合に戻るとして—–。ある変形投法の敵方ピッチャーが何球か投げ終えたとき、解説者がつぶやいたのさ。「こういうスタイル、日本なら直されちまいますよね」。「ええ。結局のところ日本は、“キレイさ”を求めますから」もう一人の解説者がうなずいた。

これ、よくある日米比較論なんだ。我らは“統合”する。彼らは“区別”する。言い換えれば日本は“画一”を良しとする。米国は“多様”を重んじる。うさんくさい二項対立な見方だけれど。

だから、かの野茂投手は、あのアブノーマルな竜巻投法をひっさげて米国に渡り、「良いじゃないか」と激讃されることで三振の山を築いた—–。でも、画一論は捨てたほうがいい。ご存じの方はご存じなのだけれど、野茂投手が最初に入った日本の社会人野球チームの監督が、若き彼のある意味で“キタナイ”投げ方を見て、「好いじゃないか。魅力あるよ」と認めていたのさ。そして、誰にも直させなかった。—–救われるよね。

でもね、って、さらに想う。“キレイ”“キタナイ”と口にしてしまうことじたいが“日本的”なのかもしれない。過激に書けば、誰にとって、なにが、どう“キレイ”か“キタナイ”か、が画一されちゃったら面白くない。

そんなふうに疑ってみるべきだ、というニュアンスの綾を、この日の夜の「吉本隆明」追悼番組が感じさせてくれたんだ。かの偉大人は、例の“共同幻想論調”で次のように言葉をつないだのさ。「人がいま価値だと思っていることは価値なのか?」(深~く考えてみようぜ)って。

こう語った吉本さんを、仰角でとらまえていたカメラは、鼻の穴を大写しにしており、その穴からは極太の巻き鼻毛がなんともリアルな灰色で顔をのぞかせていた。一瞬、ちょっと見ていたくなくて目を閉じたんだけど、その眼の中の残像は、「とっても人間的じゃないか」とつぶやいていた。ある意味で「キレイ」じゃないか、とも。

な~んかさ、この3月25日はいまだ肌寒かったけれど、ボクにとっては温かくって嬉しい一日だったんだ。

□砂川肇のユニローグ46

2012年 2月 21日

テレビの前で、鼻ちょうちんを膨らませつつ、うたた寝していたら、なんだか懐かしいサウンドが聞こえてきた。あれれ、「僕のマリー」じゃないか! 懐メロ番組かいって目をしごいたら、うんにゃまあ。かのジュリーが、完全メタボ武装のお姿を重たそうに左右に揺すってる。こりゃあリアルタイムじゃあっ、と頬に一発くれて、テレビに向き直った。

再結成したんだそうな、ザ・タイガースが。知ってた? しかも、ボクとまったく同世代の、ピーこと瞳みのるさんがドラムを叩いてる。うわわ。ちなみに、彼、1946年9月生まれ。ボク、同年10月生れ。んなこたぁ、どうでもいいって? そうね、どうでもいいよね、お構いなくぅ!

耳を傾げていて、感じ入った。「ピー、戻って来いよ」と若干の想いをこめて、数年前にジュリーほかが、「Long Good-by」という曲を書いて唄ったらしい。そしたら、それを聴いたピーがさ、高校教師の身ながら—–いい話じゃねーか、チクショー&目に霧が少々。

なにせ、「GSってぇー?」って叫んだら、「ガソリンスタンドでしょー」ってコダマが返って来ちまう今日この頃だもんね。たしかに、グループサウンズの時代は、もはや化石のような昔。でもね、いたんだよ、ザ・タイガース、ザ・スパーダース、ザ・テンプターズ—–。なぜか、バンド名に、すべからくザを付けつつ。

おそらくみんな、とても素直な面々だったから、先輩たちに右倣えしたのさ。ザ・ベンチャーズ、ザ・ビートルズ、ザ・アニマルズ、ザ・スプートニクス—-(以上すべて、順不同)。ザの後に付く本名には、総じてなぜか動物名が多かった。理由? ふざけんじゃぁねーよ。御ビートルズ天才様たちへの敬意さ、ほかに何がある!

スプートニクスがわからねぇ? いいねえ、いいねぇ、ジーさんが教えてしんぜよう。1957年に、今は亡きソ連という国家が人工衛星を飛ばしたのさ。その星の名がスプートニク。で、同じころ結成したスウェーデンのバンドが、まあ、宇宙時代というご時世にあやかって付けたんだね、この名前を。もちろん米国には、ザ・アストロノーツ(宇宙飛行士)ってバンドがあった。

つまりさ。米ソの両国家は、いろんな局面で喧嘩してたってこと。ばからしい? そうさ、おバカなのさ、時代ってやつは、今も昔も、これからも。

お叱り覚悟の、こんな駄文を書いていたら、なーんだかね想い出しちゃった。

これ、かれこれ十年ほど前の話し。ある昼下がり、埼玉県の熊谷で酒を作ってる親友氏から電話が入った。「大久保一久さんを呼んで、ライブやるんですけどぉ」。うおお! っとボクは、即座にゴリラになっちまった。「クボやんが? 弾き語るの? 彼、生きてるの? ウソ!」

駆けつけましたね、往年のファンとしちゃあ、黙っちゃあいられねー。熊谷のさらに奥地の、寄居というド田舎のみすぼらしい小屋まで。あっ、御優しきご関係者様、言葉づかいには、ご容赦を。筆致です、弾みです、ハハハ。

で、聴き入りました、「雪」を、「地下鉄にのって」を。かすかな来場者50人ほどの中からアンコールの声がかかったとたん、ボクは座席の脇に土下座して、「雪をもう一回、お願いお願いお願い」って連呼してました、ハイ。

クボやんこと大久保一久さんは、1971年に結成されたフォークグループ「猫」のメンバーだった。このグループは4年後の1975年に解散するんだけど、クボやんはその直前に抜けて、かの伊勢正三さんと「風」を結成する。デビューシングル「22才の別れ」は、世界の音楽史上に残る圧倒的な名曲だよ。ここは、譲らん!

話しが、くどく長くなりそうだ、ごめん。

まあとにかくライブが終わって、ステージ上の機材をかたずけて、そこにテーブルを持ちこんでビール&乾きモン片手の打ち上げに入った。おそらく、来場者中の最高齢者だっただろうボクは、もちろん遠慮したんだけどクボやんの隣に座ることになって、いやあお久にクボやんの生声にお触れ申し上げたわけさ。だって彼、ボクにとっては意味不明に表舞台から姿を消して、そのままだったんだもん。そして、クボやんのとつとつとした語り口が、これまたボクの目を小雨模様にさせてくれたんだね。

—–風は、数年やった。1979年の解散後も、少し唄い続けた。でもその頃、ほぼ30歳。ちょっと不安になり始めた。このまま続けていって、いったい食いつなげられるんだろうか。で、一念発起した。さいわい、薬剤師という手職があったので、サラリーマンになった。そうして、なんとか生きてきた。でもね、子供も成人して、ふと自分に還ってみたら、なんだか急に、もいちど唄いたくなっちまった—–。

さらなるボクの問いに、クボやんはしずかに答え続けた。—–いまは、ギターを抱えて(なんと!)カラオケボックスに行き、自分の曲を入れ、それにギターを併せて、声を重ねている毎日。「衰えちまったなぁ」と一人ごちつつ—–。

ボクは、(なんと平板な物言いになるけど)言葉を返した。「大久保さん。ボクも含めて当時、おそらく1000万を下らない人びとが、あなたの唄に沁み入っていた。それぞれな音調だけれど、口ずさんでいた。それって、もの凄いことなんです。誰にでもできるってことじゃない。だからぜひ、ぜひもう一度、クボやんサウンドを耳にさせてくださいね。待ってますよ、急がないで」。

あちこちで、三々五々の打ち上げ話しに興じていた若めの十数人ほどが、いつの間にかクボやんとボクの会話に、そっと耳をそばだてていたっけ。

正確を期すためにネットに入り込んでいたボクは、うわあっと時の流れに打ちのめされた。2008年の4月、伊勢さんとのコンサートのリハーサル直後。クボやんは、脳血管障害で倒れてたんだ。即、入院。もちろん、コンサート・ツアーは中止。でも7月には退院して、その後の消息は—–書き込みがない。

クボやんは、1950年生れ。今年、62歳になる。デビューから、41年。人の生は—-めぐる、めぐる。

□砂川肇のユニローグ45

2012年 1月 20日

石川遼クンは、罪つくりだと思う。だって、彼の出ているCMを見ていると、英語をしゃべるってチョー簡単なんだな、って思えちゃうんだもん。ホントに、誰でも、ただCDを聴いているだけで! なんともまあ、スゴいことを言っちまう時代だわさ。「ス、ゴ、ジ、ダ!」なんちゃって(わっかるかなぁ、このニュアンス)。

ボクが英会話を学び始めたころは、すこぶる難事だった。なにせ、ろくな教科書がない。会話学校もない。レコーダーもない。街にガイジンさんもいない。ない、ナイ、ない! じゃあ、どうしたかというと、在日米国軍が電波を飛ばしていたFENという英語放送ラジオを、ひたすら聴くだけだった。以前に書いた、ちっぽけな自作のゲルマニウム・ラジオでね。

聴きだした最初は、ナーンもわからんじゃった。言葉は、大気圏外から降ってくる信号のように響いた。音楽だけが、オンガクなんだなぁ、と理解できた。でも、しばらくするうちにね、直訳すると、「ミサワはハレ、イワクニはクモリ」って、つまり天気予報のみ薄っすらと聴きとれるようになった。ついで、「ベトナムが、なんじゃらかんじゃら」というニュースの音声見出しが、そして、音楽DJ氏の放つ、どうでもいい与太話の断片が。

とにかく、暇があるとFENに聴き入った。でも、けっして喋れるようにはならなかった。まったく、ぜ~んぜん!

これじゃあ、アカン。実践これ努めねば、と期して断行したのが、かの皇居前広場における、神風特攻型の会話術攻撃作戦だった。

ひとり、心を空にして、かの広場に立ち続ける。と、観光バスがやってくる。かつて見たこともなかった巨躯な白人さんたちが、三々五々、ジャガイモのように降り連なって、二重橋の方へ歩きはじめる。勇気を振り絞って、彼らの列の最後尾に忍び寄る。渾身の構えで、声を押し出す。「ハウ、アーユゥ?」

ご厚意満点な彼らの多くは、怪訝そうな顔を即座に崩して応えてくれたもんさ。「アイム、ヴェーリィ、ファ~イン」。でもね、ご明察の通り、その後がいかんせん続かねェ。「もぐもぐ」とボク。「これでもかペラペラっ!」と相手。もぐとペラが2~3回か繰り返されるうち、ボクは意気消沈。また空に戻った心を抱きかかえながら、とぼとぼと元の場所に戻って立ちつくしたのさ。

しばらく時を経たある折。いつものように近づいて「もぐもぐ」したボクに、相手のオトっちゃんが何かしら気まじめな顔をして「ペラ、ペラ」したんだ。あいかわらず、ワカんねー。でも、今般ばかりは、なんだかヘンだぞ。

エーテルのような不可解さを心に留めて、後日、ちったぁ英会話が達人な先輩にお伺いを立てた。書く書く鹿々。じっと黙って子どもは我慢—–顔の先輩は、おおよそ次のような推理をたてた。

ボクは開口一番、初対面のガイジンさんに、直訳すれば「貴殿は、日本を、どう思うのであるやなしや」と問うていたんだろう。でオトっちゃんは、おそらく次のように口にした。「キミねー。アンタさぁ、哲学者か! そんなこ難しい質問をとっさに投げかけられたって、どう答えりゃあいいんじゃいッ」。オトっちゃん、異国旅の途中の疲労満杯で、ちょびっとご機嫌斜めだったんだろうね。

昔、ちょいとテレビをご一緒したとき、その楽屋で、かの版画家&作家&映画監督の池田満寿夫さんにこの逸話をもの申したら、いやはやボクの想像の10倍以上もウケてくださった。そこには、ワケもあった。

池田さんは、ボクが学生のころ、たしか『朝日ジャーナル』でだったと思うんだけど、流麗なエッセイをものしておられた。とにかく知的興奮な文脈の流れだった。とくに肝命したのが、「我が国、この国」論だ。池田さんは、おおよそ次のように書いておられた。

「アメリカにいて、気づくのは、この国の人びとが自分の国を“この国”と表現することだ。対する私たち日本人は、時々以上に“我が国わぁ!”と発してはばからない」

どうしてなのか、という仮疑問符に続いて、池田さんは、きわめて納得な理と論を展開されたのだけれど、その仔細はここでは省く。でも、確かなことがひとつある。やっぱりボクは、あの皇居前広場で、“我が国”族に屹立する若輩として、「貴殿わぁ、日本をぅ—-」などと居丈高だったんだろうね。それは、英会話力なんてこととは無縁な心性だったんだろうな。ってそう想うのさ。

それ以来、ボクの辞書から“我が国”は消えた。“マイ・カントリー”なんて、おこがましい。ボクは、国王じゃない。ひいては“我が社”も嫌いな言葉になった。おマエさん、伝統ある同族企業の社長か?“勤務先”でいいじゃないか。もっと嫌悪するのが“ウチ”だ。「ウチの業務は」とか「ウチの課長は」などと口にする輩は、はなから信用しないことにした。ウチと言葉を重ねれば重ねるほど、自らを内に閉じちゃってる!—–(あれれ、なぜ演説してるんじゃ)。

という文脈で、読者諸姉兄にぜひ、とお伝え申したい秘話がある。ある大企業と、その系列子会社という筋での実話だとお心得おきくんねぇ。その子会社の役員会で。ほぼ全員が天から下ってきた社長さんや専務&常務さんたちが、「ウチは、ウチは」と甲論乙駁しておられる。大仰に扇ぎ合いながら。と、ちょうどそこを通りかかった社員氏が、“ウチは話し”の一端を耳にしてしまった。でも、どう考えても、その内容は“我が社”には関わらない。誰、彼、彼女たち同僚と糸電話しあって得た結論は、こうだった。

—–彼ら天下り役員たちが口にしていた“ウチ”とは、元々自分たちが属していた親企業のことだったのさ。あ~ァ。彼ら天下り族には、自分がいま席を置いている“この会社”になんか、一点の関心もないんだョ。ふ~う—–。

以上をなんだかんだと書き連ねてきて、いやはやと考え込むんだなあ、ボクは。この、2012年の初頭。どこの誰さんからでもいい、「貴殿は、いま、この日本をどう思うのでありやなしや」なんて問われたら、いったい何についてどう答えたらいいんだろう?

□砂川肇のユニローグ44

2011年 12月 8日

「だって、実感がないんです」と、かの由紀さおりさんが語ったらしい。新しいアルバム『1969』が欧米の30余か国で大ヒット、という快挙にふれつつの最近のコメントだ。

「1969年の『夜明けのスキャット』のときは街中で流れていて、ヒットしてるなってわかりました。でも、今はみんなダウンロードして、部屋でヘッドホンで聞いてるんでしょ。聞こえてきませんもの」

“凄いよね!”のひとことなんだなあ。40余年の時の移り変わりを、こんなふうに実感しつつみごとに言い切ってしまうなんて。感動!さ。優れた時代学者でもあるよね、由紀さんって。

ところで、このアルバム。12曲中の11曲が日本語の唄らしい。なのに欧米で大ヒット? とうことは、つまり人びとは歌詞の仔細ではなく、楽曲にひそむ“想い”に聴き入って、その波長みたいなものを受けとめてるんだろうね。

かも知れないと、ボクは思う。仕事柄、ちっとは英語を使う身なんだけど、たとえばボブ・マーリーが唄う歌詞を、しなやかに聴き取り理解するなんて、至難の技。やっぱり、彼が託しただろう想いの断片を、音の波長として感じとってるだけだもん。

さて、この音の波長。いま人びとの多くが聴きとめている機械は、スマホに違いない。では、ボクの人生でハイライトすべき機械は何だったか?

パンパカパーン♫の第一号は、ご存じのみご存じの「鉱石ラジオ」だ。小学生のとき、親が見栄張って取り寄せてた学習雑誌の付録に、組立キットがついていたんだ。それを、近所の悪ガキどもが寄ってたかって、ああでもないこうでもないと組み上げた。見よう見真似でハンダごてまで使ってさ。

イチゴの大きさの至宝がやっと出来上がって、奪い合いながらイヤホンを自分の耳に差し込んで—–音がかすかに伝わってきたときの感激は、それはそれは♪♬ いま考えりゃ、ほぼ雑音だったんだけど、ね。

第二号は、ステレオだ。これは、中学生になったばかりのころ。不可思議に明滅する真空管がいくつも埋め込まれ、2つのスピーカーが偉大な音を放つ横長の巨箱を、当時はそう呼んだのさ。

得意顔で、街の電気屋さんにそれを運び込ませた父親が、やおら聴かせてくれたレコードは、なぜかタンゴだった。こう書いていたら、「ラ・クンパルシータ」なんて曲がリズムとともに思い浮かんじゃうんだから、インパクトはもの凄かったんだね。でも、ほとんど聴く機会はなくて、だいたいが母親手づくりの布カバーにくるまれて、なけなしの狭い居間に鎮座していたっけ。でも、そのお姿を拝見できることが、なんとも誇らしかったんだ。

ちなみに。ステレオがステレオたることを実証するデモ・レコードは、蒸気機関車の音録だった。このレコードをターンテーブルに乗せ、針を落とし、目を閉じると、あれぇ、遠くから機関車が近づいて、身の前を轟音とともに走り抜け、名残惜しそうに遠くへ立ち去ってったものさ。

第三号は、かなり時を経て出くわした、ウォークマンだ。この私め、30歳になっていたかな。このあいだまで『地球交響曲ガイア』を撮り続けていた龍村仁さんが、大事そうに手に取らせてくれた。「韓国の海辺で、韓国のロックを聴いていたらさ、泣けてきて」などと格好つけつつ。でも、まさに、その音の波長の空大さは、驚くばかりだった。

大いに話が逸れるけど、ウォークマンの生みの親といわれる黒木靖夫さんには、日本デザインコンサルタント協会の設立総会でお目にかかった。ボク、50歳のころかな。いかにも型破りなふぜいで、物言いもやんちゃだった。ということで、逸れ話し。

少し時を経て、お近づきが進んだある日の酒席で、ボクは問うた。「黒木さんは、あの『百年の孤独』の黒木酒造とは、何かご関係が?」「ある、ある。大ありさ」と氏はホザいて、「欲しいの?飲みたいの?なら、いつでも言ってよ」と胸を反らせた。この宮崎の酒、当時のマボロシもんでね、たとえば宮崎空港のレストランに置いてはあったんだけど、“1人2杯まで!”なんて威張ってたんだ。

だから、理由は忘れたけど酒造の本拠・高鍋町近辺までの出張が決まったおり、黒木さんに電話をかけた。氏は、またホザきおった。「ああそう。なら、駅前の○○酒屋に連絡しとくからさ。何本でも買えると思うよ」。——出かけた。酒屋に寄った。「◆□!×▽!■」と経緯を口にした。酒屋の奥さんは、渋い戸惑い顔で答えた。「えぇ?何もうかがってませんけど。それに“孤独”は、ウチでもいつも品切れなんですよぅ」。トホホしたボクは、文字通りのコドクな気分で、泣き泣き東京へ帰ってきたんだ。だってさ、何人もの悪友どもに、「土産の“孤独”、待ってろよ!」と啖呵切りっぱなしだったんだもん。

いやはや。で、顛末を黒木さんに伝えたかって? ウンニャ。いつも言うけど、ボクちんてさ、じつに心根優しきシャイ男なのさ。えっ、あれれ、オレって、なに書いてんだろ?

話しを、戻す。戻さなきゃ。

由紀さんは、“みんなダウンロードして、部屋でヘッドホンで—–”っておっしゃってる。これ、いまでこそ正しい。でも、明日は、異なる。街に、音がよみがえってくる。“いま”とはまったく違ったかたちで。

まず、監視カメラならぬ精巧なセンサーが、通りを埋め尽くす。このセンサー、ボクが何者か、どんな曲が好みかを、正確に読みぬく。そして、道を行くボクの耳だけに届くように、ニューミュージックを伝え奏でてくれる。しかも、銀座なら高橋真梨子を、渋谷なら井上陽水を、新宿の歌舞伎町なら言わずもがなの大塚博堂を。どういう文脈かは聞かんといてくれぃ!

ウソではない。すでに、ドイツのデュッセルドルフ郊外にある未来のスーパー「リアル」では、こんな仕掛けの初歩が実験済みなんだ。かなり大きめのこのスーパー、ドアを開けて入っていって聞こえるのは、人びとのざわめきのみ。音楽はいっさい流れていない。そう見える。でもね、ボクがたとえばMTBの売り場に立ち入ると、草原の風音と小鳥のさえずりが、ボクの耳にだけ届いてくるんだ。1メートル隣に立つ人には、何も聞こえない。—–魚売り場では潮騒が、書籍コーナーならバッハが、静かに。

何をなにを、20年後には、ボクは極小な通信チップを頭の角に埋め込んでる。よろしければ、だけど。そして、街を歩きながら、思い浮かべるだけで自由に好きな曲をリクエストし、聴き楽しみながら先へ進むのさ。

こういう可能性を想うにつけ—–痴呆症なんて、辞書から消えてなくなる。いまはさ、「ほらあの曲、何てタイトルだっけ?唄ったのは、あのぉ、えーと」なんて“あのそれ語”を連発しながら、“あいうえお”を何回も行ったり来たりして、やっと辿りつければいいほうじゃない?でも、チップが記憶係をしてくれるんだから、さ。

えっ、五十音を行き来する楽しみを奪うな?うーむ、どうなんだろうね。

ところで由紀さん、いま63歳。嬉しいよね。だってボク、いちおう団塊問題総研の所長なんだ。だから、お仲間が活躍してくださることには、涙、涙。

そうじゃないと、いつの間にかみんな蟄居しちまって、時々、週刊誌の「あの人は、いま」記事になって、ついには死亡報告がテレビや新聞をにぎわすのがオチなんだもん。だから—–ボクがさ、日本団塊問題学会を主宰したら、由紀さん、名誉総裁になってくれるかなぁ、なって欲しいな。無理? あっ、そっ!

□砂川肇のユニローグ43

2011年 11月 10日

人間なんて—–と書き出したけれど、でも、吉田拓郎の「人間なんて」を♪♬♫しようってわけじゃァない。自分の言葉で、人間なんて、バカで愚かだなあ—と続けたかったんだ。ある意味、ボクはほんとうにそう思うし、信頼する筆頭筋の情報人類学者・奥野卓司氏の永年の教えでもあるんだ。

だって、そもそもさ。なぜ我らのご祖先さまは、止しゃあいいのに木の上から地面に降り立って、しかも無理して二足歩行なんちゅう行為をおっ始めちゃったんだい? そうしないままいたら、木の枝から枝へ自由にターザンごっこできていたし、トラやライオンに食い殺されることもなかったはずなんだョ。

でさ、ことほどアホで鈍なこの生き者、21世紀に入ってもまだまだビミョーなことをやり続けてる。趣味と実益を兼ねたネットサーフィンしていて、心底、そう思い直してる今日この頃なのでありますよ。順不同で恐縮なんだけど、たとえば—–。

「ヤバい写真を修整してソーシャルメディア送信できるアップル系アプリ」(ふぅ、長げーなぁ)なんてのが、世にお目見えした。デジタル情報なのに(だからこそ、か?)例の黒塗りやモザイクが自由自在なんだって。

バカやってんじゃあねーよ、と言いたい。撮ったんなら、そのまま送りゃあいい。修正するくらいの根性無しなら、送るな! あれれ、仕掛け人はベルギーの下着メーカーなんだってさ。ってことは、どういうこと? 生な局部を修正すると下着が浮き立つほど美麗に見えて、結果、売りにつながるのかなあ、ワカラン。

いつも通り“ジジー話し“を書いちゃうけど、第二次大戦後の日本で流行った言葉に「アプレ」がある。無道徳かつ無軌道な若者たちを、大人たちがそう呼んだんだ。アプレな奴ら、と。でもね、なにが道徳かつ軌道だったんだか。大人っていう存在は、つねに人間さまだね。つまり、愚かだってこと。

それから65年。このたびは「アプリ」が、大通りをノッシのっししている。だから、最新ネタを、もうひとつ。人間の心を読んじゃう(と触れこむ)アプリが、すでに蔓延気味なのさ。

ボクが—–料理屋で、バーで、映画館で、いやコンサートでも演芸場でもいい、フェイスブックやツイッターでなにかをつぶやいたとしよう。と、このアプリ、そのつぶやきが秘める意味を読み解き、つぶやいた場所を特定し、時刻も確認する。そうしつつデータを積み上げたうえで、おマエはこういう人柄だ、好き嫌いはこうで—-と、つまりプロファイリングしてしまうんだそうな。しかも、勝手に。アホだよね。

にもかかわらず、こういうプロファイリング・データとやらが企業に売られ、マーケティングなんぞに酷使されていくらしい。アとホに濁点をつけて怒鳴りたくなる。

そういえば。うるさい後輩が、フェイスブックの“お友達”になってくれとシツコイので、まあ「許可するっ!」って返事くらいしとかなきゃ人間関係を壊しちまうぞ、とキーを押しちゃったんだけど。これがまあ、酷い過ちだったわけで。

つまり、その直後から、俺も私もアタイも自分も「お友達にっ!」ってメールが殺到してきたのさ。まあ、許せるよ、なんとか知っていそうな輩からなら。でも実際には、スペルを読むことすらできない名前の見知らぬ御仁からも、メールがあったわけで。トホホですよ、これは。

しかも、“お友達”ってさ、いったい何なんですかいな。軽いよね。薄っぺらだよね。ふう。

クッキーを手焼きして、食べられる紙に印刷したQRコードを貼りつける、「食べられるメッセージ・クッキー」なんてのも売りだされている。あ、これ、ドイツでの話し。このクッキーを贈られた人が、スマホをQRコードにかざすと、贈った人のつぶやきが読めるんだってさ。まだるっこしいじゃぁねーか。

これもその人の勝手だけど、焼いたクッキーを贈って、ちょうど届いた頃に電話でもすればいいだけのこと。鈍を地でいってるね、こういう仕掛けを“ステキね、面白いなぁ”なんて好感する奴は。

電話といえば、極寒の日に屋外でスマホする人のための手袋なんてのも商品化された。ところはニューヨーク。企画したのはMUJI。えっ、すなわち日本の無印良品さ。でもね、そんなに寒い日なら、屋内でやりゃあいいじゃない。そんなに急ぐ用事なら、ちょっと指先を温めてやればいい—–とにかくこんな手袋に2000円も払うか?

ちなみにアメリカでは、ケータイが一般化しはじめた1987年に、この持ち運び電話を、その年の“ワースト・ヒット商品”にノミネートしていたんだ。そのココロは?「歩きながらも仕事させられる機械なんて、死んじめえ!」

まだ、ある。

客が発電機つきの自転車にまたがり、懸命に漕ぎ合って電力を生み出し、その電力で映写機を動かして作品を鑑賞する映画館がお目見えした。これはイギリスのネタ。ご時世柄、少なからず麗しい話しだけれど、でも汗をかきかきペダルを漕ぎ続けて、それで名作を“観賞”できるんかいな。

お叱りを覚悟して書くけど、節電が狙いなら、ほかの局面でしっかり実践すりゃあいいんじゃないかな。

おバカな広告も、気になってる。かのシボレーが、新車を、30メートルの高さに組み上げたコンテナの先っぽに駐車させたんだ。それを見守る人びとは、「やってみようよ!」という名の同車のサイトをクリックする。そのクリック数が240万に達したとたん、新車はそろそろと端の方へ動きだし—–アッと思う間もなく“バンジージャンプ”しちゃうんだって。

なにか、こう、良しモトと邪ニーズに支配され続けるテレビの枠の中を覗き込むようで—–はあ、だから面白いの? 知らん、オレは。

これもアメリカでだけど—–。

ステート・ファームという損保会社のサイトにボクの住所を入力すると、例のグーグル地図さんのご助力で、ボクのご近所がパソコンの画面に映し出される。と、思う間もなく、巨大なロボットがご近所をドシンとうろつき始め、アッ、あぁ、ついにボクの家を踏みつぶしちまうんだ。これ、すなわち、最新のAR技術、どうでもいいけど。

そして、どうしてくれるんだ、オレの血と汗の結晶を! と泣き叫ぶボクの眼に、メッセージが跳び込んでくる。「備えあれば、憂いなし」。てやんでぇ。

えっ、これは面白い。そう、かな。そう—–かもね。

バブル崩壊からほぼ20年経ったのに、いまだ今日この頃のていたらくではありますゆえ—–おバカな話しに成り下がりまして。お許しを。

□砂川肇のユニローグ42

2011年 10月 12日

危ういけど、記憶が正しければ—–と、同じようなことを何度書けば気が済むんだろう。ああ、65歳になっちまった。口と鼻から漏れ出ずるタメ息も、何とはなしに老衰気味の感、しきり。このヤロウ!

さてはて1981年の秋、ボクは—–。東京は九段坂の中途にあったアップル・ジャパン創設準備室で、スティーブと初対面していた。横浜こども科学館にかかわる仕事の一環で、パソコンに載せる学習ソフトの取材に出向いた折だ。

でも、この業界に疎かったボクは、良くは知らなかったんだな。「やあ!」と気さくに手を差し出してくれた、あのニーちゃんのことを。よれたジーンズと、変哲のないTシャツを身にまとった彼は、このとき若干26歳。やたらに顔の幅が広いなぁ、というだけの印象だった。

しかし、すでに彼は、1980年にアップルの株式を公開して、2億ドルものゼニを懐に入れていたらしい。長者番付に名を連ねる20代の天才児として、さらなる剛声を博しはじめていたのさ。こう書くと、彼がまるで金の亡者になっちまう。決してそんなことはない。念のため。まあ、とにかく、ホントは畏れ多かったということさ。

スティーブに次対面と相成ったのは、そう日を置かない翌年のこと。いまで言うところのシリコンバレーの片隅で、再会した。

このとき彼は、すでにアップルの会長さんだったはずなのだが、ボクが取材したスタッフのオフィスの脇を通りかかって、やはり「やあ!」と声を交わした。ボクが誰だかなんて、まったくわかっちゃいなかったと思うんだけど。彼は、とっくにニーちゃんを卒業して、今般オバマ大統領に「偉大な革新者」と言わしめた風貌を、しかとかたちづくりつつあった—–と思う。

ちなみに、この日ボクは、スティーブのことなんか忘れてひたすら取材に励んだ。だって、この頃のアップルの学習ソフトは、すこぶる楽しかったんだもん。たとえば「ピンポン」。モニター上の目盛みたいな印を地球に合わせて球を打つと、まあふつうに左右に行き来する。ところが、目盛を月に移すと、球はフゥオーン、フゥ~オンとゆるやかに飛び交う。さらに火星に移してみると、フ~ゥ~オ~ン~ンなのさ。わっかるかなぁ、このビミョーな変容?

つまりこのソフトは、引力について“語って”いたんだね。文字や音声では、何もいっさい語らずに。当代流行りの“ひたすら”“理由不明”で喧しいだけの殺し合いゲームソフトなんかと較べりゃあ、ファンタジーが満載。あっ、これジジーのたわごと。関係者の諸君、気にせんといて。

でもさ、こういうニュアンスこそが、スティーブの想いだったはず。そこは、譲らねぇ。

三度目に彼と会ったのは、1987年。MITメディアラボが主宰した、ケンブリッジでのシンポジウムだったと思う。

このときの顛末は、かつて、このブログの「海外事件簿」で書いているはず。なにしろ徹夜明けに成田からすっ飛んだもんだから、現地到着後の昼日中はとてつもない時差病に苛まれて、会議々々はほぼ爆睡の中。スティーブの招待スピーチなんて、じつは、何~んにも聞いちゃいない。タハハ。

でも、夜のパーティになるとしっかり元気を取り戻して、酒も旨いしネーちゃんは綺麗だ♫♪♬の晩、晩、晩さ。その席で、当時交流が深かったメディアラボ所長のニコラス・ネグロポンテが、改めて紹介の労を取ってくれた。「これで、三回目なんだ」とボク。スティーブは、おそらく腹の底では“えっ、どっかで会ったっけ?”くらいにつぶやきつつ、ここでも「やあ、やあ!」だった。

色々なことがあってアップルを中座し、ピクサーのCEOに就いていた32歳の彼の顔には、世界タイトルマッチに挑むボクサーのような殺気がみなぎっていた。いや、そう感じ取ったのはボクだけかなぁ。

スティーブと同い年で、かたやのマイクロソフトを率いていたビル・ゲイツは、訃報に触れてこうつぶやいたと報じられている。「スティーブとともに歩めた私たちは、“狂おしいほどに”光栄だった」—–。めくるめく変転するリングの上で、熱光線のようなストレートやフックを交わし合っていたんだろうね、彼らは。ウラヤマシイなぁ。

較べものにならないのにもの申したって、冷笑されるのがオチ。ましてや巷間、言われることでもある。けれども、零細貧困ビズのオヤジ業を続けてきたボクにとって、スティーブは、IBMやヒューレットパッカードをはじめとする“大きい奴”にテメエ!と楯つき続けた、まさにヒーローとして、燦然としている。彼が大阪弁をしゃべったはずはないのだけれど、どこかで時々、「ナンボのもんじゃい!」と啖呵を切っていたはずなんだ。

じつは「やあ!」の後に引き続いたしばしの会話の行間に、そんなニュアンスは歴然としてあった。啖呵というか、敢然さと書くべきか、が。そういう意味で彼は、ボクが人生で出会った偉人たちと心根を同じうする。ヴァージンのリチャード・ブランソン、ザ・ボディショップのアニタ・ロディック、パタゴニアのイヴォン・シュイナード—–。とにかく素っ敵な連中だったのさ。

彼スティーブ・ジョブズは、56歳の若さで逝ってしまった。05年、スタンフォード大学の卒業式に招かれた折のあの名スピーチの、「愚かに生きよう」という結び語を残して。

でもね。この「ステイ・フーリッシュ」のフーリッシュは、たんにバカをしよう、なんて意味じゃない。あえて常識をはずそう、洒落てみせよう、と意味は広がるし、ボクが好きな、戯(たわ)けるという含意にまで行きつく。

そう、彼は、パソコン~インターネットの40年の時空を、最新の表現を借りれば“ニュートリノ”で駆け抜けた「快戯児」だった。ボクは、そう書きたい。

だけれども、ね。遺影としてテレビやネットに出てくる彼の顔は、さ。30年前の初対面のころと較べて、幅が半分になっちゃってたんだ。もちろん、見幅も。そのことが、ちょびっとね、儚いよ。

□砂川肇のユニローグ41

2011年 9月 6日

ここのところ引き続いている「9・11」追悼番組をテレビで見ていて、久しぶりに違和感に抑え込まれちまった。だって、かなり著名な政治学者が、「ウィー・アメリカン」って連発するんだもん。あっ、もちろんこの学者、酔っぱらってるわけじゃない。薄めのコーヒーをって言ってるんでもない。「我々、アメリカ人は」って威張ってるんだ。

だからこそ、違和感がほとばしり出る。

「ウィー」ってさ、お前さん自身のことだろ。お前さんとおんなじ考え方をする人だけを指してんだろ。だったら、「アイ」か「マイ・フレンズ」って言えよ—–。そう独りごちるボクの脳味噌には、「あいつにだけは、アメリカ人を代表するような物言いはして欲しくねぇーよ」と怒り狂う友人たちの顔々が浮かんでたんだ。

たったひとつの街ニューヨークですら、「ごみを分別しましょう」と告知徹底するには少なくとも20数言語が必要だとされる。そんな状況の総体が、アメリカなんだ。つまり、ことほどかの国は、人それぞれが甚だしく異なる。考え方も、生き方も。ナニも、アレも。だから、強いて言えば、あの国には“アメリカ人”なんていない。様々に違う個々人が、てんでに暮らしている大地のことを、便宜上アメリカって呼び合っているだけなんだ!

(あれれ、今回は、なんともまぁ力の入ったイントロになっちまったなぁ)と、お詫びしつつ—–。なぜかボクの脳味噌は因果の関係を結んじまったので、今年1月に書いた、「砂川肇アメリカ研究30周年記念大論文!!」の、続編に立ち進むことにする。(なにが因果じゃい!周年記念じゃい!このトボケ!)

その「ユニローグ33」でボクは、アメリカは振り子の国だ、壮大に実験する国だ、と大演説した。男のストリップを話の種にして、ね。揺れる局面や実験の襞を垣間見ることが、やめられない♪とまらない♫とばかりに、とてつもなく面白いのさ、とも。(かっぱえびせんか?アメリカは!)

この実感は、30年前もいまも、ほとんど変わらない。

30年前。あの国の観察を始めた当初に出会ったのは、「あなたはトイレで、何センチの長さのペーパーを、何回たたみ揉んでからナニする?」という極めて神妙かつ哲学的な調査レポートだった。そんなこと、どうでもいいじゃろ、とは言わせない迫力に満ちた内容だった。ほぼ同じころ、「あなたは朝起きてベッドから出るとき、靴下を左足から履くか、右足からか?」という気高くも謎めいた調査論文にも遭遇していた。(????)

これも初めての取材旅行に出かけたころ、西海岸ベイエリア奥地のサウサリートで、とてつもない現実に頭を殴りつけられてもいた。

折からのペットブームがテーマだったんだけど、たまたま立ち入ったペットショップには、なんとワンちゃん外出用のミンク毛皮のブーツが鎮座していたんだ。しかも値段は時価で40万円! とっさにボクは、同行の友人に聞いた。「こんなのを買う奴って、どんな“仕事”の人?」。彼は答えた。「“仕事?”。な~んにもしてない人さ。あえていえば、年に2回、各1時間ほど、弁護士から資産管理についての報告を受けることくらいかな」。(恥ずかしいので、“そういう人”の年収がいくらかなんて、訊くこともできなかった)

重ね書きするけれど、2011年の今年も、面白さの実情は変わらない。たとえば—–。

「9・11」以降、空港での身体検査が厳格になって、まるで裸体を曝さなければいけないような現実にあることは、ご存じのとおり。だから、さ。ある“アメリカ国籍を持つ一人”がやってくれたのさ。意訳するなら「検査探知線拒否繊維下着!(むむっ)」を世に問うた。それを履いていさえすれば、かの検査機ゲートなんて、屁でもない。小型拳銃や麻薬のたぐいは即座に発見されるのだけれど、ナニの周辺だけはテキトーにボカしてくれるんだ。だから、貴兄の○○が超巨であれ粗であれ、なーんにも恥じることはない。とにかく、写らないんだから。(あれぇ、こういうネタに限って詳しく書くんだなぁ、オレは)

有アメリカ国籍人たちの一角は、闘うのさ。不条理なことに対しては。

もうひとつ、傑作がある。シカゴでの実話なんだけど、ちいさな酒場を営んでいたある男、客筋の悪さに辟易していたんだね。とにかく酔いつぶれて寝込んじまい、明け方まで無銭睡眠する輩が多くて増えて。と、この男、奇策を思いつき、実行してみせた。なんと、酒場の上階のフロアを借りて、簡易ホテルを開店してしまったんだ。もう、お解り。酔いつぶれた客一人ひとりを部屋に運び上げて、ベッドに蹴とばし倒す。それだけ。翌朝、酔いざめ客たちは、ありゃりゃと目をしばたきながら、何がしかの宿ゼニと飲み賃を置いて男の元からすごすごと立ち去る。(フツーなら、行いを改めるよね。でもこの界隈には、懲りない面々が多いらしい。かくしてこの酒場兼宿屋、かなりの繁盛なんだってさ)

超最新のネタでは、太陽光で創電するビキニ水着なんて、どうかな。隠さなければアウト!な最小限の部位が、例の水銀色の柔らかい発電布で縫い合わされている。これを身につけてプールサイドや浜辺に寝そべれば、その歯ぎしり&いびき堪能時間に応じてビキニが発電し、タバコ大の蓄電池に溜めておいてくれる。お後でケータイを充電しようが、アイパッドをいじくろうが、それは彼女の勝手。(誰だ!人の話も聞かず(読まず、か?)、ビキニ美女のあられもない肢体だけを妄想してる輩は!殺すゾ!)

30年前の作業は、ひたすらのアナログ労働だった。

ひと月の遅れで届けられる、月刊誌や週刊誌や新聞紙やらの膨大な記事に、くまなく目を通した。これぞ、と思うネタを発見すると、やおら電話機を取り上げて、取材先の調査に進んだ。いや、ボクは嘘を書くところだった。やおら、とはいかなかったんだ。なにせ時差があり、しかも国際電話は交換手を介さなければ—–。だから、早くとも夜の10時過ぎまで黙ってじっと待ち、タイミングを見計らって電話機を取り上げたのさ。

ということで言えば、当時、いちばん恐れたのがKDDの交換手嬢だった。当方は、ほぼ酔い加減でロレツがおかしくなっちまってる。敵は深夜の労働渦中で、ご機嫌が良いとは限らない。だから、見えないんだけど電話機の前で頭をピコピコ下げながら、「あのう、恐れ入りますが、ニューヨークの○○番へ、おねげーします」と敬語を使ったもんさ。(彼女が気分を害して、プッツンと回線を切られたとたん、ボクは途方に暮れ、地獄へ落ちるほかなかったんだもん)

そう悪戦苦闘して取材先リストをまとめ、パンナムに飛び乗り、アメリカどさ周り旅行を繰り返したってわけ。1年に何回も、ニューヨーク→シカゴ→サンフランシスコだったり、ニューヨーク→アトランタ→オースチン→ロサンゼルスだったり。(そこのお若いの、パンナムがわからない? 昔あったんですよ、そういうエアラインが。アメリカという国家の威信を背負ってね。だからかな、つぶれちまったんだ)

はぁ、どーでもいいことを延~々と書きすぎて、疲れ果てちゃった。

まあ、30年後のいまは、ネタ探しはインターネットでワンクリック。取材先への連絡も、いつなん時でもメール一本。飛行機の旅だってね、30年前はアンカレッジでトランジットして、デトロイトで入国して——と途轍もなく難儀だったんだけど、いまや各所とも直行便だもんね。すべてを総じて、デジタル3.0な日々。(客室乗務員氏は、昔の方がはるかにベッピン揃いだったけど、んなこたぁどーでもいいか)

とにかく世の中、というか各種作業の表面だけは、じつ~に楽ちんになった。疑いないよね。でも、反面の中身はどーなのかなぁ。

(と格好つけがちなボクではあるのですが、でも、たまに洋書店に立ち寄ってインクの香りが漂う懐かしのマガジンなどを手にすると、ふと30年前の若輩美青年当時がよみがえってね、ホンワカとアナログします、ほんとに、ハイ)

□砂川肇のユニローグ40

2011年 8月 4日

静岡団塊倶楽部の客寄せパンダとして始動した、この月刊ブログ。あれれ、という間に40回に到達してしまった。な~んにもめでたくないけど。

そしてだ。最初は極私的にと身辺をつづっていたのだけれど、ここへきて、ひたすら目にあまる昔話に偏ってしまっている。つまり、極昔的な雑文に。でも、致し方ない。よろしければ、と、お付き合いいただくほかはない。そんなわけで—–。

ちょうど30年前の1981年8月。

ボクは、「マクロ・エンジニアリング国際交流講演会」代表幹事の一員として、奮闘していた。なんとまあ、気高く、かつ舌をかむ肩書なんだろう。いまですら、恐れ入ってしまう。

さて、とにかくこの幹事役、じつに忙しなかった。

まずは立ち上げ準備のために、東京と、米国のニューヨークとボストン、それに英国のロンドンとオックスフォードとの間を、独楽のように行ったり来たりした。81年初からのおよそ半年で乗りつぶした飛航路の総延長は、ボクの人生ではギネスブックものだ。時差クンと深~い仲の日々だった。

超凄い諸兄姉との出会いも、忙しなかった。

日本学士院長、日本学術会議議長—なんて朝飯前。高エネルギー物理学研究所教授ほか、名刺をいただき面談に進んでもなお正体不明な精鋭諸輩の数十名と、くんずほぐれつ死闘した。

初めての準備会議の開催も、忙しなかったなあ。

代表幹事とはいえ最若輩者のボクが会場取りしたんだけど、のっけから事件さ。というのも—–市ヶ谷の私学会館の担当氏を電話口に呼び出したボクは、「部屋の看板は、マクロ・エンジニアリング研究会、でお願いします」と、ゆっくり、明瞭に声にした。つもりだった。ところが当日、少し早めに会場のドアに達したボクは、いやはや卒倒しそうになったのさ。看板には、「真っ黒エンジニアリング」と書いてあったんだ。ホントに!

そういや担当氏、何回も聞き返していたっけ。しかし、後の祭り。とっさに道具を借り、自分で書き直して事なきを得たんだけど、いやはや。

30年前には、メールはなかった。ファックスだって、そんなに。つまり、いまで言う固定電話で、急ぎの連絡のほぼすべてをまかなった。だから、こういう珍事、あちこちで頻発してたんだろうね。

代表幹事たるボクへの、最大の贈り物は、なんともな変人奇人との深~い出会いだった。

たとえば、代表幹事のもう一人、神彰さんは、ドンコサック合唱団やボリショイバレーを日本に招いた“赤い呼び屋”として著名だった。後には、居酒屋北の家族チェーンで一世を風靡した。

その神さん。初対面のとき、開口一番に生年月日を問うんだ。で、数日後。「キミは、いい、いいねぇ」と肩を叩く。なんでだろっ?と、正直、気味が悪かったんだけど、ほどなくして謎が解けた。神さんは、四柱推命とやらの大家だったらしい。だから、生年月日でボクのなんたるかを極秘裏に探って—–結果、神さんとの相性が吉と出たらしい。その後ずっと、あの強面の神さん、ボクにだけはいつもコニコニだった。ボクはず~っと、気味悪りーぃと畏れつつ下を向き続けた。

当時、宇宙科学研究所の教授だった長友信人先生は、今日日本の、いや世界に広がる宇宙開発事業の礎を築いた俊秀だった。簡単に言やあ、ロケットの大家。

なのにさ。飛行機には怖くて乗れない、って宣言するんだ。誰だって驚くでしょ、超超音速で重量な飛行物体の専門家なんだから。でもね、詳しく話を聞いて、理解した。飛行機じたいが怖いんじゃないんだ。飛行機が舞うスペースが怖かったんだ。

紹介された本を読んで、言わんとする事実がわかった。ちょっとキナ臭い話だけど、たとえば成田や羽田の場合、専門用語で言うところの“空域”を米軍や自衛隊の面々がほぼ全面活用しており、民間機が飛べるスペースはほんのわずか。なのに、数秒単位で超巨大な金属物体が離着陸を繰り返し続けるなんて、「信じられなぁ~い」と先生。

じつはそれでも疑ってたんだけど、その後、九州での別のシンポジウムにお招きした折、先生は正々堂々、新幹線と在来線を乗り継いで、やっこらさと会場入りされたんだ。

講演者としてオックスフォードから来て下さった、同大学経営科学研究所長のウーヴェ・キッチンガー先生も、奇人だったなぁ。だって、登壇して何分も経たないのに、「歯が痛てえ、これじゃ話なんかできねぇ!」と楽屋に引っ込んじゃったんだもの。会場に詰めかけた数百人も、事務方も、“えっ、なに?!?”と唖然さ。

誰よりも機転の利くボクは、このヤロウと近くの薬局に走り込んで“今治水”を買い求め、楽屋にとって返して先生の口をこじ開け今治水をぶっかけ、演台まで引きずり出して腰を蹴押してやった。

治してこいよな、虫歯くらい、イギリスを飛び立つ前に。ふつう、そうするだろっ(怒)!

とてつもなく変人奇人だったのが、プロジェクトのすべてを取り仕切った、中川學先生だった。

初めてニューヨークへの先乗りにご一緒した折。JFK空港に着くや先生は、「砂川クン、どうせ入国には時間がかかるからさ—–」とトイレに立ち入って服を脱ぎ、パンツ一丁で行水しちゃうんだもの。ボクはといえば、ひたすら暇をこいて、ほぼ30分、トイレの外に立ちつくしたのさ。

中国古代思想の専門家だった先生が、ボクに残した変奇な話は、もちろんこれからも忘れない。

「今回、海外から呼ぶ人の過半はユダヤ系、つまりジューイッシュの面々だ。迎える我がほうは儒教文化系。でね、このジューと儒は、じつは音が同じなだけでなく意味も繋がってるんだ。いわば、ご一緒の民と考えていい」。??????

結局のところ、真っ黒、じゃないマクロ・エンジニアリングって、なんだったのか?

ひとことじゃ言えないんだけど、当時の世界を支配していた「スモール・イズ・ビューティフル」という考え方に関わるんだね。

経済思想家のシュマッハーが唱道したこの考え方は、いわば巨大技術事業の負の側面を鋭く指摘し、人間スケールでやろうよ、と呼び掛けてもいた。そんな折だったから、マクロ・エンジニアリングは、ややもすると“巨大な”事業と一面的に受け止められて、ヤバい立場に追いやられつつあった。

でも、と主宰者のフランク・デイビッド先生は言葉を紡いだ。

「スモール・イズ・ビューティフルを貫くためには、“なぜ”“何を”“どう”やってみせるのかと“巨視=マクロ”する営みというか姿勢が、欠かせないんだ。つまり、スモール・アンド・マクロ・イズ・ビューティフル、なのさ」

すでに故人になってしまった、神さんも長友先生も中川先生も、こんな物言いの襞に触れて、あの30年前の夏、想いを熱く交わしあった。末席のボクも—–ご相伴にあずかった。

□砂川肇のユニローグ39

2011年 7月 7日

7月は毎年、ボクにとって、極めてかけがえのない月なんだ。

というのもボクは、誰に憚ることなき高校野球オタクだからだ。つまり7月のとある1日、実際には2時間ほどなんだけど、夏の甲子園に挑戦する後輩諸氏の一喜一憂に、ボクも一喜一憂するのさ。毎年の母校の球児たちの走行守に、いや、それよりも後輩応援団諸君の、熱く雄々しき乱舞に。

はるか50年前の7月の熱暑かった日、ボクは大宮球場のスタンドにいた。少しばかり変形な学ランに身を包み、腕には臙脂の腕章を巻き、たしか慣れない手つきで、にわか旗手を務めた。柔道で鍛えた腕力だけは、抜きんでていたからなのかもしれない。

そう、ボクはなんと、華の応援団員だったんだ。

試合は—なにせ野球部員の数が足りず、中学時代にちょこっと経験したらしい助っ人を補充するような体たらくだったから、5回コールドでベタ負けした。

覚えてるんだ。その助っ人君、お定まりでライトを守ったんだけど、そんな時に限って飛ぶんだね、ライトへのフライやライナーが、憎たらしいほど。そして彼、そのすべてを落球し、後逸しやがった。

あと1点取られたらコールド!の5回表、1死満塁で、うぇえ、また平凡に見えるフライがライトに上がった。ボクは、とっさに目を閉じた。その時、まさに黄色い声が球場に響き渡った。「おねがぁーい、捕ってーぇ!」

あとで聞いたら、助っ人君のカノジョだったらしい。まあ、麗しき友情応援だったんだろうけど。もし御両人が、その後めでたくゴールイン!だったとしたら、きっと一生、尻に敷かれっぱなしだったんじゃないかな、彼。どうでもいいけどさ。

試合終了後、球場脇に正座させられたボクたち1年坊主は、先輩団員たちから殴られ蹴られ、怒鳴られた。「おマエらの根性が足りないから、負けたんだっ!!!」。根性?いまや死語だろう、そんな言葉づかいも含めて、そういう時代だったんだ。

「よーし」とボクは誓った。ならば強くなってやろーじゃねーか。誰にも負けないくらいの根性を、カラダに叩き込んでみせよう。そして先輩、アンタらを見返してやるぅ!

ひたすらランニングした。腕立ても、腹筋も。あわせて、必死の型練習にも邁進した。なんとも凄かったのが、発声練習だ。合宿の折などは、住宅街のど真ん中の校庭なのに朝4時起きして大声を張り上げ、ご近所住人諸輩から怒鳴りこまれた。「うるせぇ!」。トーゼンだよね。「庭にボールも飛び込むし、ごみを投げ込んでいく奴もいるぅ」と、それはこの際、関係ねーんじゃねーかと思われる罵詈雑言にも、耐えた。

そうしつつ、声帯を破って2度も吐血して、ボクはノドを完成させた。根性に、厚みが重なった。後のカラオケにも貢献してくれた。

3年生の夏。ボクは、なんとも華々しく、応援団長になっていた。根性というなにものかを取っちまったら、なーんも残らないような輩に。

そして、ふたたび大宮球場での3回戦。相手は、その年、甲子園に行った大宮工業。ボクたちは、当時は珍しかった色分けプラカードを手づくりして、声をからした。結果は?9対4。でもね、その年の埼玉県予選で、大宮工業にコールド負けしなかったのは、我が仲間だけだった。

団長たるボクの相方、つまり野球部のキャプテンは、苗字が長嶋だった。しかも3塁を守った。だからいつも、球場のアナウンスが「サード、ナガシマくん」と独特な声音で響き渡ると、場内がざわついたんだ。ボクたちは、ジャイアンツのナガシマと同時代を生きていた。えっ、オレは虎キチだけどさ、悪かったね!

試合後、その長嶋と、抱き合って泣きじゃくった。言葉など、ひとことも交わさず、ただただお互いを讃えあった。あの、腐汗まみれの学ランとユニフォームが発したにおいを、忘れることは、ない。

そんなこんなを起点に、以後50年。ボクは球場に通い続けてきている。母校の試合は、完全制覇!1試合たりとも見逃してはいない。

こう書くと、「うそだろー」という訝し声が聞こえてきそうだ。でも、ホントなんだ。で、そこには、深ーい理由がある。つまり我が母校は、とにかく弱いのさ。ほぼ毎年、1回戦負け。だからなんだよ、通い続けられたのは。これが、数年に1回は決勝まで行くような学校だったら、無理、無理!

社会人になって以降も、この、麻薬のような1年1回の球場通い癖が、ボクのカラダから立ち去ることはなかった。いつのまにか、職場でも有名になっていた。何にも関係ない同輩が、7月になると、「今年は、いつなの?」と聞いてくるように—。こうなりゃ、もう、天下を取ったようなもの。その前日、先輩に、「明日は自主休暇でーす」と申し述べると、「おおぅ、もうそんな季節か。頑張って来いよ」と応対してもらえるようになっていた。「どうせ、1日だけだもんな」と、身に沁みるジョークも重なりつつ。

ついに、03年7月21日、ローカルで恥ずかしいけど『埼玉新聞』が、「浦高元応援団長はトレンド・スポッター」と題する長尺の記事を載せてくれた。球場通い癖が、ボクのなけなしの勲章になった日だ。すなおに嬉しかった。じつは見出しが長すぎて、トレンド・スポッターが“Tスポッター”と表記されていたわけで、これって、ちょっと卑猥?と思わなくもなかったんだけど。

今年は、7月11日、所沢航空公園球場に出かけてくる。

10時試合開始だから、おそらく12時ころには、ボクの孫くらいの団長氏が振るエールに声を重ねているはずさ。もちろん、負け試合を悔みつつ。

でね。そんな折、不思議なんだけど。いつもボクの眼からはなぜか小雨が噴き出してきて、情景が霞んじまうんだ。ボクは、後輩たちの雄姿をハッシとまなじりに納めてるはずなのに、ふと一瞬、その雄姿のなかに50年前の微少年のボクがたたずんでるからなのさ、ああ。

わかってもらえるかなぁ。

きっとボクは、そんなふうにたたずんでる彼に会いに、毎年7月、たった1日2時間だけ、球場に足を運び続けてるんだ。これからも—。